初夏の大宝神社
大宝年間の創建といわれる大宝神社は、中山道沿いの広い参道の左手には立派な四脚門を見ることができます。
初夏、ここ綣の地では、境内の緑が爽やかな風光とともに、実にうららかです。
栗東市は、かつて栗太郡と呼ばれ、栗太郡を範囲とする『栗太八景』が、寛延3年(1750)頃に、大橋(現栗東市大橋)慶崇寺の僧 致遠(ちおん)によって選定されています。
平成元年(1989)10月、栗東市(当時栗東町)は、『みどりと文化のまち栗東』にふさわしい現代の景勝地として新たに『栗東八景』を選定しました。栗東八景が選ばれてから30年が経過した今日、あらためて栗東八景を見つめなおし、栗東の今昔に思いをはせ、私たちの郷土の歴史やの文化遺産を再発見することを願っています。
栗太八景漢詩碑
「手原行人」 手原 稲荷神社手原橋欄干
「赤坂帰樵」 小野 赤坂公園砥山夕照
「伊勢落晴嵐」伊勢落 街道筋
「上野夜雨」 林街道筋
「金山暮雪」 大橋 三輪神社
「松島秋月」 大橋 慶宗寺内
「蓮台寺晩鐘」下鈎甲 寺跡
「砥山夕照」 北の山 上池
大宝年間の創建といわれる大宝神社は、中山道沿いの広い参道の左手には立派な四脚門を見ることができます。
初夏、ここ綣の地では、境内の緑が爽やかな風光とともに、実にうららかです。
信濃善光寺の一光三尊阿弥陀仏の分身を安置する鎌倉時代創建の新善光寺では、毎年春と秋の彼岸には盛大な法要が営まれ、多くの参詣者と出店で賑わいます。
六地蔵は、東海道の石部宿と草津宿のおよそ中間地点にあり、「間の宿」と呼ばれていました。ここは商売に適していたため、旅人に薬を売る薬屋が数件ありました。
江戸時代の慶長16年(1611年)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したため、喜んだ家康がこの薬を「和中散」と名づけたと伝えられます。胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝されました。
和中散屋を営むかたわら、小休屋も兼ねていた大角弥右衛門家には多くの大名が休憩に立ち寄っていたようです。
旧東海道の昔を今に伝える「和中散本舗」の庭園は、小堀遠州の作といわれ、池泉鑑賞式の庭から眺める日向山の借景は汲めども尽きない趣があります。
天平12(740)年、聖武天皇の勅願により僧良弁が開基したと伝えられ、また長享元(1487)年には将軍足利義尚が、ここ鈎の里安養寺に出陣しました。
近江八景を形どった庭園は、雪化粧されますと水面に咲く雪の花が実に見事です。
昭和63年(1988年)にオープンした栗東自然観察の森は、自然を人の五感を通して学びとる施設です。森の中にはネイチャーセンター、探検道、観察小屋などの施設があり、指導員のもと、身近に自然を観察することができます。
張り詰めるような冬の朝、まだ日も明けやらぬ時から馬と人の生活は始まります。暁を打ち払うかのように駆け抜ける競走馬の駒音は、トレセンならではのものです。
昭和50年5月に第26回全国植樹祭が開催された場所で、現在は滋賀日産リーフの森(県民の森)として広く人々に親しまれています。
近江平野を吹き抜ける心地よい春の風は、訪れる人の心をなごませてくれます。
金勝寺は、天平5(733)年に聖武天皇の勅願により僧良弁が開基し、興福寺の伝灯大法師願安が弘仁6(815)年に、この山に伽藍を建立したと伝えられています。
標高560メートルの高地にあるため、真夏でも静寂につつまれていますが、それ以上に天台仏教修行の場としての幽玄さは独特のものがあります。